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近江牛から近江の味と文化へ明治12年の創業以来、ほんとうにおいしいお肉を食べていただくことだけを考え、ひたむきに歩んでおります。毛利志満シェフがお伝えする美味しい召し上がり方
近江牛と共に百四十余年毛利志満と近江牛の歩んできた道
八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ ぎつしり並べた鍋臺の前を この世でいちばん居心地のいい
自分の巢にして 正直まつたうの食慾とおしやべりとに 今歓樂をつくす群衆 高村光太郎 「米久の晩餐」 「近江牛毛利志満」の〈歴史=物語〉は、ひとえに、地元を代表する近江商人、竹中久次と森嶋留蔵兄弟(滋賀県蒲生郡竜王町山之上生まれ)の果敢なフロンティア精神に始まります。 蒸気機関車、ガス灯、レンガ建築、そんな文明開化の象徴のひとつに挙げられる牛鍋。明治初頭、関東方面での牛肉需要の急速な高まりを以前から聞きつけていた久次は、その先見の明を発揮。それまで農耕用としてしか使われていなかった牛を陸路、十数日かけて曳行し、外国人居留者の多い横浜などで直接取引を始めます。脂肪交雑の良い但馬の素牛からなる近江牛はたいへん人気を博し、それを追い風に久次は、家業の米穀店を手放し、明治十二年、ついに東京浅草に近江牛肉の卸小売業と牛鍋店を兼ねた「米久」を開店します。 「牛肉が塔の如く盛り上げてあった」(古川緑波「牛鍋からすき焼きへ」)と言われる米久の牛鍋は、瞬く間に巷を席巻。艱難辛苦の末、関東と関西を拠点に二十数店舗を構えるまでに発展します。しかしながら、明治から大正にかけてトレンドとして一世を風靡した米久も、関東大震災と昭和の統制経済の影響で、竹中・森嶋家の手からは離れることになります。 それ以降、蒲生野という元来肥沃な土地で、近江牛のさらなる肥育技術の向上と振興に努めてきた森嶋家が、昭和五十三年に、「髪の毛ほど細くてわずかの利益で、勤勉・倹約・正直・堅実の志を忘れず、すべての人に満足して頂ける」店を目指し、レストラン「近江牛 毛利志満」を開業致しました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||